この10日で一夜で10万人以上の市民の尊い命が失われた「東京大空襲」から68年になる。
アメリカによる空襲は昭和19年11月から終戦間際までサイパン島などのマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上行われたが、その中でも昭和20年3月10日に行われた「東京大空襲」は今までとは違い超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という民間家屋を標的にした攻撃、またゼリー状のガソリンを筒状の容器に詰めたナパーム弾により多くの火災が発生し多数の焼死及び火災による酸欠により窒息者を出した。
旧神田区(現:千代田)も同じく空襲を受け多くの家屋が消失し多数の尊い命が奪われたが、この「東京大空襲」の日を迎えるにあたり、万世・秋葉原駅周辺がこの大空襲により実際どの様な被害を受けたのか確かめる為、今回「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れた。
同資料センターには空襲の悲惨さや当時の生活を物語る資料や写真などが多数展示、公開されているが、その中に旧神田区の焼失家屋を記した地図を確認出来た。
これによると神田区(現:千代田)とそれに隣接する浅草区、下谷区(現;台東)が甚大な被害を受けながらも奇跡的に延焼を免れた地域がある事に気が付いた、それが神田区須田町地区である。
確かにこの地区を歩くと戦前からの建物が多く残っているのを確認出来るが、同センターに確認したところ須田町では神田川が防火線となり、また住民が川の泥や豆腐などを投じてまで懸命な防火活動にあたったことから、被害を免れたとの事だ。
この地区にも焼夷弾が落ちたが、空中で分解されずにそのまま落下したため不発弾となった事も幸いしたのかも知れないとの事だった。
この様な建物は歴史的にも重要である事はもちろん、戦争にて亡くなられた方々の尊い命の上に今がある事を静かに我々に語ってくれている様に感じる、この10日秋葉原に訪れた折には、この様な建物を見ながら戦災で亡くなられた方々に今一度思いをよせては如何だろうか